「労働」によって“何を得るか”よりも“どんな人物になるか”である
風呂場に小さい防水用のテレビがある。
もう何十年も前に購入したものなので型が古く、サッカー観戦をしてもボールは全く見えない。
そんなガラクタ同然のテレビを風呂場に置いているのには理由がある。
今の時代そう珍しくもなくなったが、私は常に「情報」が欲しいのだ。
そうなってしまうと、必然的に体を洗っている時間、シャワーを浴びている時間が苦痛となってしまう。
だからニュースでもバラエティーでも、とにかく何でもいいのでシャワーを浴びながらテレビを見るのが習慣となっている。
噂によると、こういう傾向の人は前世での「戦の記憶」からくる名残りらしいが、現世でのメリットは特にないに等しい。
だが、昨日は違った。
「労働」によって“何を得るか”よりも“どんな人物になるか”である
どんな番組で誰の言葉だったのかもわからないが、これだけが脳裏に強く焼き付いた。
まさに今の自分にぴったりな言葉である。
働くってしんどいし、働いたら働いただけの見合った対価が当然欲しい。
でも、そうもいかないケースが当然ある。そういう場合は、物質を選ぶか?経験を選ぶか?の選択に迫られるのだが、ほとんどの人は物質を選ぶであろう。
私は今、その葛藤の真っ最中なのである。
人の考えなんてコロコロと変わるもので、今後どうなるかなんて分からないが、これをたまたま見た“私も”今これを知った“あなたも”何かの助言であったと信じたい。
そして、その本当の意味を理解するには・・・
きっと現世では無理なのであろう・・・